建設の経緯

岩手県公会堂(過去) 岩手県公会堂(現在)
   (画像左:建設当時の公会堂 画像右:現在の公会堂)

岩手県公会堂が出来るまで

 大正12年(1923年)、皇太子であられた昭和天皇陛下のご成婚を記念し岩手県議会で公会堂の建設が発議されました。
  当時はまさに大正デモクラシーの高揚期で大正14年(1925年)には普通選挙法が成立し、大衆娯楽にも弁士が熱弁を振るう無声映画が登場するなどの時代でした。そのような時代の市民生活の中では人々の集う場所が求められていました。
  創建時の公会堂は、県会議事堂・大ホール・西洋料理店・皇族方等の宿泊所と4つの用途を備えていました。
  内丸通り(現・中央通り)に面した正面入口の左側には県会議事堂、右側の地下1階から2階にかけてはパリのリッツホテルで修業した料理人が腕を振るう西洋料理の公会堂多賀、北側には第一公会堂と呼ばれた大ホール、そして正面入口の2階には昭和3年(1928年)昭和天皇陛下を迎えての陸軍大演習の折に「大本営・御座所」としてご利用された貴賓室も作られました。

旧応接室 現応接室
(画像左:大本営御統監室(現応接室) 画像右:現在の応接室)

■陸軍特別大演習のため天皇陛下来盛

 公会堂が出来た翌年の昭和3年(1928年)に、盛岡を中心とした陸軍の大演習が行われました。その際に大演習の大本営となり、天皇陛下が貴賓室(現 応接室)にお越しになられました。また、貴賓室の隣にある和室付属室・日本間(現・特別室)は御座所として天皇陛下のご宿泊所となりました。


(画像左:大食堂(現21号室) 画像右:現在の21号室)

■県民の社交場としての公会堂

 昭和20年まで東側1階、2階には小食堂・大食堂・球戯室などがあり、県民の社交場として利用されておりました。
 新渡戸稲造氏も県民との親睦を深めるために、2階公会堂多賀大食堂(現 21号室)を利用したと記録に残っております。


(画像左:創建当時の大ホール 画像右:現在の大ホール)

■大ホールの歴史

 創建当時から現在に至るまで、講演会や演奏会等の会場として利用されています。
 創建当時の客席は、移動式の長椅子であったので、ダンスパーティーや美術展も開催されておりました。
 現在は個別の椅子となっており、1・2階合わせて839の座席数があります。

設計者について

 公会堂の設計者は、佐藤功一博士(元・早稲田大学建築学科主任教授)です。佐藤博士は1903年(明治36年)に東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、三重県技師、宮内省内匠寮御用掛を経て、1909年(明治42年)早稲田大学の建築学科創設に参加しました。また、1909年1月から1910年(明治43年)10月まで、早稲田大学から派遣されて欧米各国を視察。その後早稲田大学建築科の開設とともに講師となり、翌年には教授、建築科主任となります。
 1925年(大正14年)には日本女子大学教授に就任し、女性に対する建築教育の草分けとなりました。建築作品は関東大震災以降のものが多く、早稲田大学大隈記念講堂(1927年)などを設計されました。
 岩手県公会堂は、佐藤博士の代表作の一つである日比谷公会堂と非常によく似た外観をしています。2年先に完成した岩手県公会堂は地上6階建てに4階建ての塔をのせた日比谷公会堂に比べて規模は小さいですが、スクラッチタイル張り外装や塔屋の姿はまるで兄弟のようです。いずれも耐震壁構造を備えた近代コンクリート建築の先駆けのような存在でした。
 創建87年(平成26年現在)を迎える岩手県公会堂は幾度かの改修が行われましたが、内部には漆喰の美しいレリーフや優雅な曲線のバルコニーなど、佐藤博士が設計されたアール・デコ様式の意匠が今尚残っております。

原敬像について

原敬像

 公会堂西側の庭園内に、原敬の銅像があります。
 この銅像は原敬没後30周年を記念して昭和26年11月、岩手民主政治普及会、岩手県議会、盛岡市などにより設置されたものです。原敬と言えば「平民宰相」の名で知られ、日本の政党政治の基礎を築き政党内閣を実現させた岩手が誇る郷土の偉人です。
 ※「平民宰相」
 藩閥政治が支配的だった明治・大正期に、東北出身の新聞記者だった原が首相になったことからこう呼ばれました。
  なおこの銅像は銅像作者 本山白雲(1871〜1952)の作品で、同作者の馴染み深い作品としては、高知県桂浜の坂本竜馬像などがあります。